無の行進

新年あけましておめでとうございます。


とは言えない。対外的にはそういう感じではない。線を引くことはできるがどうもそれは納得がいかない。かといって出尽くした言葉を言うのも違う気がしている。


今回の出来事についての誠実な対応とは何だろうかと思う。当事者は大変なことが予想できる。では、第三者の自分は?と考える。何も言わないが気にかけるぐらいだろうか。


今日は帰りにふたつの神社に寄った。この時期は本来は雪が積もっているので整備された神社にしか初詣はできないが、今年は雪がないので山間部に近い神社に寄れた。


神社は些か有名な神社ではあるが、朽ちてきていた。参道の石には苔が生え、杉の葉が覆っていた。


時折、こうした光景をみると整備したくなる。何か心が洗われるような気がするし、誰かに感謝されるような気がする。たぶん、そこに充足を見つけるのだろうと予想している。良いことを考えているようで、見方によっては随分と傲慢かもしれない。


作品や文章を見ては、新しい刺激を探している。10年以上前の本を読んで、読んだ気になっている。それに無を感じることもある。


先程、人の意見を聞いて何になるのか?というのが一瞬よぎった。他者の意見を聞けば共感が生まれるだろう。そうすると流されているのでは?とも連想できる。反対に聞かなければどうだろう?社会から必要とされないのでは?と予想することができる。


無の行進や行動をしているような気にもなってくる。自分が満足する状況は、一旦はとても大変で退屈で疑問に感じることをクリアしないと行けない気がする。そこに到達すると、しばらくは多幸感に包まれたあとに、堂々巡りするような気もする。


人に見られる文章を書いている時点で、少しブレるのだけれど、ノートに書くのもしょうがないのでここに記す。

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