超無個性化を考えてる

体調:まぁまぁ。メンタル:うーんと悩み中。外:今日はめっちゃ寒くなるらしい。


10月に入ってから、ネット活動をゆるく撤退しようという考えが頭をもたげている。理由としては細かく色々あるので、思いつく範囲で書くが、メディアが個人のレベルまでコンテンツ供給をするようになり、アイコン化されてない個人として、がんばる理由が乏しいこと。自分の中で人に見て欲しいという欲求があまりないこと。ネット上にあるコンテンツの多くが人工知能などで代替できること。供給過多にも関わらず、大量にコンテンツが供給されることに、自らが参加する意義を感じないこと。案外、現実世界を地味に見つめる方が豊かなのでは?という考えが芽生えたこと。それを人に伝播しようと思っていないこと。などが挙げられる。


これといってクリティカルな理由はないが、インターネットが確定された輪郭を持つようになったので、拡がりや面白さを感じないという部分もある。輪郭が確定されていない10数年前は、ルールやテクノロジーが拡張していく雰囲気もあり、現実社会と隔絶された様子もあり、また無法地帯のような場所も居心地が良かった。現在はインターネットは現実社会の一部となり、面白い一般人は、知名度を持つ有名人やメディアに駆逐されていった。何をするかよりも誰がするかの方が商売として優位に働くのを見てきたので、そこに薄く食い込めないかなぁと考えたこともあったが、現実社会で名を馳せたメディアや有名人がちょろっと個人のやっていた分野に進出したことで、一般のコンテンツが中途半端化した。分かりやすい例をとれば、こたつ記事はメディアのする仕事ではなかったと思うが、取材に行けなくなったメディアが資本投入したことで、個人ブログやサイトはその価値を失ったというのがある。これはSNSも動画コンテンツも同じ道を辿るだろうなという予測を持っていて、言い方を変えれば消耗戦ではある。


さて、そんなことをうつらうつら思っていながら、私自身は振る舞いをどうするか悩んでいる。やめちゃうか、ゆるく続けるかである。やめる理由は上記に書いたことに付随することが多い。ゆるく続ける理由は、やめる人が今後増えると予想しているので、ゆるく続けることで生き残る可能性も予測できるからである。


資本主義としては、コストパフォーマンスも悪く、やる意味のない話ではあるが、個人レベルではそこはさじ加減だ。私の場合、段階的に労力をかけないように調整はしてきているが、もう少し労力を減らしつつ、維持できる方法はないかを都度、考えたりする。


昨日思いついたのは、ネット上で使っているユーザー名やアイコンを超無個性することだった。私はユーザー名「PN3」を使っているが、これを無力化して没個性にした方が気が楽なのでは?と考えた。


手っ取り早く無個性なユーザー名は「.(ドット)」だったり「 (スペース)」だろうなと思う。多少意味合いを入れるなら、「…(記号)」でも良い。アイコンもそれに準じる。現実世界に例えると道端の石だ。そこにあるけど、とらえどころがない。愛着も湧かなければ、居なくなったとしても誰も気づかない。そういう表現で、現実にいる私はネット上にコンテンツを供給すれば良いかもしれない。それは私じゃなくても良いかもしれない。中身が入れ替わっても分からないだろう。 これくらいのスタンスでもいいかなぁと思ってる。

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