論理的整合性
体調:腰痛い。メンタル:普通。外:もう穏やか。プロテイン:今日はあとで飲む。
そういや最近、メンタル安定してんなーと感じる。ブログの書き出しでその時の状況を記しているのだが、メンタルが虚無と書くことが減っている。やることがたくさんあるので、虚無になっている暇がないということだろう。私にとって、暇や深く考えることはメンタルに悪影響を及ぼすのだなぁと思った。どちらも「なんでこんなことやってるんだろう」とか「未来が安心できないことに不安を感じる」とか「世間と比べて、なんでもない自分がなんでもなさすぎる」ことを再認識する余地を与える。そりゃ、メンタルも良くはなりますまい。
「論理的整合性」という言葉を見かけた。厳密な定義を検索したが、その解説が長文だったので、たぶん一言で表されないのだろう。超簡単に説明すると「ダメだと定義したら、何があってもダメ」みたいなことと解釈した。
で、その「論理的整合性」は案外、人間生活を窮屈にさせる。これは自分の身に降りかかると柔軟性がない。臨機応変が効かない。これ自体は特に気にならない。ただ、議論を見ていると相手に「論理的整合性」を押し付けて批判している人がそこそこ居た。まぁ、自分に関係がないのであれば、これは良い武器になる。論理的整合性を良しとすれば、相手は議論において窮屈な解釈をしなくてはいけない。こちらは安全地帯から相手を窮屈にさせるから勝手が良いのだ。確かに論理的整合性は、話を単純化させる。分かりやすいことが好まれる昨今において、何か正しい気がして議論を整理する気がする論理的整合性が持て囃されるのは分かる気がする。一方、柔軟な解釈や複雑なロジック、臨機応変って瞬間的に理解されづらい。瞬間的に分からないものに対しては、瞬間的に反応して嫌悪感を示す人がいる。この人を議論のなかで納得させるためには、論理的整合性をもって説明しなくてはならず、つまり、相手の理解の範囲で論理を構築しないといけない訳だから、めんどうなのである。自分で処理すると抱え込まないといけなくなり、息苦しくなる。なので、こういった時は簡単にあしらえばよい。分かってもらえなくても、分かってもらえないんだろうなーと思いながら話せば良い。分かってもらえないことがデフォルトで、分かってもらえればラッキーみたいなね。ただこれ、簡単に逆転の現象もありえる。自分が理解できなくて相手に説明を求めることになる。もうこうなったら持ちつ持たれつだなと。理解できない範囲で妥協して進めてくださいって話だよね。