今の行動って、むかしのトラウマに囚われてない?

体調:よし。メンタル:まぁまぁ。外:穏やか。


レンダリング最中の15分程度で書こうと制限を決めて、今回は書く。テーマは散発的に5-6個湧き上がったがどれも決め手に書ける。出力するまで煮詰まっていないというかなんというか別に書かなくても良いような話。


ひとつは、案外簡単。今の行動って、むかしのトラウマに囚われてない?という話。私は明確に捕まっていると感じる。分かっていながらも、この行動原則を外すと余計めんどくさいことが待っているのでは?と邪推して、ダラダラと囚われている。


分かりやすい例を書けば、昔のインターネットはほんとに揚げ足取りが多かった。いま思えば善意もあるだろうが、誤字脱字、考え方の違い、先入観、一般常識で指摘されたり、批評されたりすることは数知れない。私は案外、それを喰らうと嫌になってしまうので、守るべきものがなければ降りていた。チームを組んでいる時は降りられないので、結構しんどかったように思う。やられてもやり返すというのは良くないとされてきたし、理不尽といればそれまで。自分が人間関係嫌になった理由のいくつかは含まれている。


現在では、そういう人たちがどこに行ったかは知らない。芸能人や有名人がSNS参加しているので、そちらに標的を向けただろう。実際に会ったことがある人でも何人かは亡くなったし、もうほぼ交流もしていない。こういう昔の関係がもたらしたトラウマ。トラウマほど強烈ではないが現在の行動に響いている。一体、誰から逃れるためにそんなことしているのかは、自分でも疑問に思う。


こういう文章を書くことすら、長年はばかっていたようにも思う。SNSが定着してからは、なるべく穏便にポジティブに当たり障りのない発言に努めてきた。好きでもないものを好きというようなものである。実際に嫌いではないから好きと言ってもいいのである。嫌いなものは嫌いとは言わない。苦手という。もしくは自分の捉え方が悪かったのかなーとか言ってお茶を濁す。まー、そんな発言を数年はしてたんじゃないかな。おかげで何が好きで、何が嫌いかはよく分からない。


無駄にすべてをやる。というのも過去の面倒くささから発生した癖だ。私は元来、7-8割ほど物事にのめり込んだら飽きていた。この先が予想できる段階に来たらつまらないからである。昔はあっちこっちに興味が飛んで、グッと集中して7-8割理解したら、次というのを繰り返していた。


それを良しと思わない人は、ダメだと言ってくる訳だ。その人たちはしつこかったので、しょうがなく、嫌々残りを詰めるのだが、残念ながら物事は7-8割の理解まではスピード感良く達成するのに対し、残りの2割を埋めるのはかなりしんどい仕組みになっている。9割埋めたとしても、残り1割を埋めるのは、それまでの時間と同等程度はかけないと埋まらない。なぜか人生や物事はこういう難易度になっている。


私は面倒くさいながらも、それを埋めた。たぶん、ダメだと言って来た人以上の知識を得たなぁと思うときもあったが、元来もう見切った対象物に対しての理解なので、当人はつまらないし、言ってきた人たちとは話が合わない。超えちゃったから。できれば、先で待っていてくれれば良かったのになーと思うことはしばしばあった。


なので案外、熱っぽくしつこく言ってくる人は、その場のノリで言っているだけなのかもしれない。SNSの批判を見れば分かる。批判をしている人の多くは理解不足である。相反する意見の場合、理解が進めば、あっちのことも分かるし、こっちのことも分かるという着地を得る。その上で、自分の立場を決めるから議論に批判は起こらない。


ちょっと距離を取ると、そういうのが見えてくる。なので熱をもっている人とは距離を取る。よほどいい人だと助かる。熱っぽく攻撃的な人は近づかない方が良い。体力ないと疲れちゃうから。

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