起きたら、清々しいほどに虚無だった

起きたら、清々しいほどに虚無だった。一点の曇りもない。こうした時はしばしば訪れる。起きてすぐに虚無だと、虚無であることが真実のように感じてしまう。つまり、魔が差しやすい。


虚無の状態を言葉に変えると、希望や上昇志向は固く蓋を閉ざされているように感じ、地上は無風。海の上なら凪のような状態になる。もちろん、これは私の心象描写に過ぎない。希望を感じないからやる気が出ない。しかし、そこまで絶望をしていない。草木であればその地でずっと生きていく決心は固まるだろうが、いかんせん人間であるので、希望を持てず、かといってすぐに命を取られるような状態でもなく、ただポツンといる。


「生きていても意味がない」という言葉はとても便利である。この言葉は時代によっては通用しないだろうが、現在ではなぜか共通認識が持たれている。意味を求めるとそういう言葉も出てくる。ただ、虚無の時は意味を考えることもない。ただそこにある。


生きていてもしょうがないと思うと、リセットしたら気持ちがすっきりするんだろうか?という欲求だけ出てくる。今回の虚無の心象風景では、空は曇りなく高く、地上は砂漠で海は凪であった。ちかくに古井戸がある。気持ちがすっきりするかもしれないんなら、古井戸に飛び込んでみようかと直感が働く。たぶん、これが魔が差す瞬間。時に仕事や私生活が上手くいっているように見られる人がいなくなってしまうのは、この清々しいほどの虚無を味わったからかもしれない。起きているのに半分は夢の中にいる感覚。ぼんやりとした気分でVRゴーグルをかぶっているような感覚。勇気や才能があれば、ちょっと試してみようかと思ってしまう瞬間。そこには虚無がいる。


ちなみに私自身、自死については否定も肯定もしない立場を持っている。どちらかといえばその人の決断を支持するタイプ。幸い近しいところでそういった人はいないから死を実感していないだけかもしれない。私自身は、思春期に数度試みたが達成できなかったので、その後は才能がないということで諦めた。私が自死する時は、寿命を使い切るか餓死だろうなと思ってる。


案外、死が隣にいると生きたくなってくるものでもある。なので、もし考えている人がいれば、それを実行する前に、自分をちょっと追い込んで見ると良い。それは登山に行くとか一人旅をするとか絶叫マシンに乗るとかバンジージャンプを飛んでみるなど、ちょっと間違えば死ぬかも?と思うようなことをすると良い。私の場合は、真冬に泥酔して歩いて帰路につくとき、転んで雪山に突っ込んで立てなくなり、文字通り死にかけた。「俺は生きてやるぞー」となぜか思い、這いつくばって家に帰った。死には寛容ではあったが、本当に死を目の前にすると意外と生きたいと思ってんだなーと苦笑いしたものだ。


また、これは思春期ごろに感じたのだが、死にたくなるときは精神が疲弊していて、身体は元気な時がある。だけど、なぜか身体を殺そうとするんだなぁということに疑問を持った。私はそういう時に勧めているのは「精神の自死」である。一旦、気持ちを殺す。言い方を変えれば開き直る。いつ死んでもいいやーと思ったら、じゃあ死ぬまで頑張ってみるかーと思えば良い。気持ちだけリセットすれば良い。生きてればおいしいものを食べれるだろうし、ちょっとしたことで満足感や達成感を得れば、その時は幸福だろう。たぶん、死んだらそれはない。犯罪も同じ。わざわざする必要はない。虚無かもしれないけど、刑務所よりは自由だろうし、好きな時にプリンも食えるだろう。それだけで生きてることも悪くないなんて思えるものだ。

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