今週の振り返り(2022/04/12)
記事にするほどではないが、眠れないので「今週の振り返り」。
布団に入ったら寝付けなかった。布団に入って悶々とした時間を過ごした。先のことを考えてもイマイチ ピンと来ない。ウェブを見てもしっくり来ない。過去を振り返ってもどうしようもない。
布団から出て、久しぶりに記事を書こうと思ったのだが、布団の中での気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。パソコンに向かっている今は猛烈に眠くなっている。布団に入ると体はまどろむがその分、頭が冴える。こうして作業をすると眠くなる。この中途半端な時間の過ごし方がとても下手くそで困っている。
この時間は一般には魔が差す時間なのかもしれない。自殺願望のない人がふとした瞬間に逝ってしまう時間だろうなと思っている。幸い私に自殺願望はないが、この時間は人生をひどく退屈に思わせるし、何事への興味も奪う。上手くいっていることは忘れてしまうし、コントロールできないが自分に影響を与える者に対し、嫌悪感を抱かせる。とどのつまり、何をしてもしょうがないなぁと思わせる。生きていてもしょうがないし、正負の関係であれば正を忘れて負ばかりを強調してくる。メシを食えば気が紛れることは分かっているが、健康には悪いだろうなぁとかそういうことを考える。生きていてもしょうがないことはよぎっているのに、健康を気遣っている。酒を飲んでいれば酩酊しているだろうなぁという時間帯ではある。
最近、ふと思うことは現実と非現実のことで、自分は現実に向き合っていない気がする。仕事もウェブ関係が多いせいか余計にそう思う。現実と非現実のここでの定義は感覚で掴んでいるが説明が難しい。ウェブやゲームなどは非現実。現実はそのもの現実である。
現実で悪とされているものは、徐々に徐々に非現実に押し込まれていっているなぁと感じている。分かりやすい例が暴力である。現実での暴力は非難され排除される対象であるが、非現実では許容されている。むしろ非現実では暴力や殺人描写は人気を集めているようにすら思う。別にこれがどうということではないが、非現実に向き合っていると現実を忘れることがある。いま、自分の周りから非現実を取っ払ってみて、何が残るか考えてみると意外と残るものは少ないのではないだろうか?
SNSのアカウントが無ければ「無」だろうし、パソコンやスマートフォンなどのハードウェアが無ければ非現実を表現しているソフトウェアに手が届かない。ウェブには無数の文字や本(電子書籍)があるが、現実にある町を見た時に、本屋は随分少なくなった。私は現実に戻ったときに、いま住んでいる町には恐ろしく娯楽は少ないし、行くところも数か所しかないなぁと気付かされる。娯楽や観光を除けば、行くところは食料を買えるところぐらいだ。病気になれば病院が追加されるくらいだろう。
娯楽や情報は非現実に押し込まれてしまった。友人や知り合いも非現実の中にいるし、スポーツだって映像やゲームを見て楽しんでいる。実際に会ったり、体を動かすことは減ってしまった。さまざまなものが文字通り現実離れしてしまった。
現実への関与が弱いと後々支障が出るのだろう。そんなことは予測に入ってくる。効率化や合理化というのはシステムか心身が壊れるまで最適化を目指すだろうし、余白は無駄だと認識されて埋められる。こういうことは各々がうっすら思ってるかもしれない。ただ、見えない何かを予想して対応しているだけだ。
仕事が効率化しても8時間働くだろうし、災害が無ければ災害を作り出すのがヒトなのかもしれない。結局、時間が余っても選択肢は意外に少ないものだし、一回経験すればもう十分なものは多い。年を重ねると一度の経験で先を予測しては興味もなくなってくるし、新しい刺激よりも昨日できたことが今日もできることに喜びを感じてくる。
自分が興味のないものを学んだところで、誰かと話しても面白くもないし、そもそも興味を持つ対象も少なくなってきている。やりたいことというよりもやれることをやっているだけ。
楽しいと感じるのは体調が良いときで、つまらない時は体調が悪いときということもある。体調が良いと無理もできるが、悪いと照明ですら浴びると気分が悪くなる時がある。
感じ方なんてそんなもん。